ネガティブな過去を赤裸々に語ります

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ネガティブな過去を赤裸々に語ります

この物語はほぼ実話です。(記憶が曖昧な部分もあります)

基本ネガティブな内容ですので普通に不快な方、『なんだ不幸自慢か』と気分を害する方もいらっしゃると思います。

又、中には『あなたなんてまだまだよ』とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。事実、現在はたくさんいらっしゃると思います。

ですが、今ではしっかりと向き合い克服し、私自身、 最高に幸せ! 😆  だと実感しております。

そんな私が覚えている範囲で過去を赤裸々にぶちまけます。

最後まで見ていただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします 😛

私は自分の居場所がないとずっと思ってました(四面楚歌)

3歳頃

両親が離婚し父に引き取られた私は、母親というものを忘れ、いつもめそめそウジウジしていました。父が大好きでした。

4歳頃

何度か会ったおばさんと父が再婚し新しい母と2つ上の姉が家に来ました。

その義理の母は大変厳しい人でウジウジしてるけどもちゃんと男の子だった私を虐待まがいな躾で抑えようと努力していました。(男子の子育ては大変ですから)

小学校1~2年生頃

成績は学年下限から数えて3番以内に推移、成長曲線は下に大きくはずれてました。

同じクラス10人以上から輪になって集団いじめに遭います。その頃はよく姉に助けてもらいました。

毎日のように泣いてました。通学が嫌で集団登校を隠れて一人通学をしていたこともあります。家では小遣い稼ぎのための家事労働が始まりました。

母が厳しかったので2年生くらいから家出するようになります。

小学校3年生の頃

小遣い稼ぎの家事労働から完全当番制家事労働(食器洗い(週2回、高校のとき3回)・風呂掃除・トイレ掃除・部屋掃除)が発足

このくらいかな非行が始まったのは。具体的にいうと2桁以上の万引き常習犯、計10万以上親の財布からお金を盗むなど、家出回数2桁など

叱り付け方がとにかくきついので、居場所がないと感じてたので家出をしたときは夜に友達にパンを恵んでもらいに行ったりしてました。

小学校3年生後半

万引きがばれます(3回目)母が迎えに来て一緒に謝罪。家に帰ったら殺されるんとちゃうかなと怯えていたところ、店の中を歩きながら『ラーメンでも食べるか?』と優しく聞かれ号泣。

その一言で変わりました。自分はやっと優しくしてもらえたとこのとき実感。もちろん万引きと金盗みはしなくなりました。

それ以降5年生くらいまでマザコン期間です(笑)

小学校5,6年

学校生活は割と問題なし。ただ、母が姉は過剰に大事にするのに、僕は?という思いが増えるように。

中学1年

学校生活、すっかり真面目になってた私は、他の小学校出身のヤンキーに粘着いじめに遭います。

学校にいる間は、授業中も休み時間も全て付きまとわれ、嫌がらせを受け続けました。

ある日、友達がソフトテニス部に誘ってくれたので体験入部をしてました。初めての運動部なので、ぎこちないながら楽しんでました。

姉が来て『あんた助けてよ!』と言われたけど、そのときはなんのことかわからんかった。後で聞いたらどうやら姉もいじめられてたとのこと。その日、家では『なんでお姉ちゃん助けへんのか?あんたは守ってもらってたやろ?テニス部かお姉ちゃんどっちが大事なん?』的な責め苦を受けました。いや、無理でしょ?相手3年生だよ?自分のことでも精一杯やのに。と思ってましたが、とうとう姉は不登校に。(高校は無事に行き卒業しはりました)

なお、テニス部に入ることまで否定されたので、ケチがついた気がしてやめました。(リア充になるきっかけがw)

中学2年~3年

2年前半、ヤンキー同級生からのいじめは継続されてました。休み時間にボールを投げつけられること数十回、予鈴がなったタイミングでマジ切れし、その男子の背中を思いっきり蹴り降ろすという復讐をしました。以降は収束しました。

家では母の父への陰口が多くなり。居心地の悪い環境に。

高校1~3年

高校デビューだ!とわざと元の校区からはずし、商業高校 情報処理科に入学

自然と笑顔が作れるようになってたため、人間関係はいたって良好

家では母の父への小言がいるときにでも言うようになり、さらに居心地の悪い環境に。

承認欲求の強さのせいか、資格試験を徹底的に勉強。高校生で基本情報技術者試験合格。中間・期末テストも特に問題なし。

大学受験は国立推薦で行けるとのことだったが、小論文で文章力のなさ、グループディスカッションでコミュ障が災いし就職を蹴ってしまう。

結局、学校斡旋で就職希望をしてもタイミングが遅くプログラマー職がないため断念。

又、もう1つ声優という淡い夢があったので親に申し出するが、『お金がないから、授業料自分が全てバイトで稼ぐなら良いで』と言われ諦める。

当時、自力で就職するという無理ゲーを選択してしまう。

社会人1年~

自力でプログラマー募集の求人広告を漁り、就職活動をする。

何度か落ち続けるが、1件だけ試用期間後にC言語を試験して合格したら内定という会社があったが見事沈没w

その後はフリーター。そしてネットゲーひきこもり。

そんな状況を知って、水道屋に勤めている父に現在の会社(親戚経営)にバイトに来るように声をかけられます。

自分の居場所がココだと信じ、頑張るを続けます(粉骨砕身)

はじめはめちゃくちゃ嫌でした。プログラマーか声優志望でしたから。

危険、汚い、きつい、給料安い(若手)、4K仕事というのは知ってましたから。

1年半は現場。それから半年は現場終わりの事務所労働(長時間労働)

約2年で完全に事務所に入れました。

8時~18時定時、日祝日、第二土曜日休み、実質、GW暦どおり、盆休み3日、正月休み3日くらいなのですが。

退社19時当たり前、繁忙期は21時とかもありました。たまに夜間・日曜出勤もありました。

それがずっとありました。

26歳のときに1人暮らしをしました。わずらわしいことからも解放され、その後まもなく今の奥さんと出会い結婚する。

結婚式当日、母と姉は他人のような振る舞いなど諸々にモヤモヤさせられる。

20代後半で慢性的な頭痛、熱中症慢性化、定期的に腸炎にかかる といったデスクワークと日々のストレスが身体的症状に表れ始める。

奥さんの機転で整体に行きはじめて身体は改善していきます。

ずっとくすぶり続けていたものが崩壊します(精神崩壊)

2,3年前に仕事のピークがありました。

しかも、2人目の子供ができた頃です。

ホルモンバランスの悪い奥さんの機嫌が悪くなるので、19時より遅く残業できませんでした。それを毎日1年間19時残業を継続しました。

たまに深夜残業になることもありました。夜間工事も当然ありました。

会社内も陰口合戦、卑屈な経営者のモチベーションを下げる言葉、改善しない体制、行動を伴わない無駄な営業会議、無駄な求人募集(気に入らなかったらクビ)。

そんな状況で上層機関から理不尽な要求や叱責、工事中止命令などがあり、またその方が担当区域の現場を幾度と繰り返すうちに心がボロボロになってきました。

整体で治ってたはずの頭痛が朝からきたり。腸炎が再発したり。奥さんと喧嘩が増えたり。

会社に行きたくない!これマジで思ってました。途中で漫画喫茶でも寄って・・・なんて考えたことも。

でも、逃げることはしませんでした。

うつ病にはなりたくない。いやなってるかも?と思いながら・・・

このままじゃあかん。俺がだめになる・・・なんとかせんとな・・・(七転・・・)

これから先は、次回です。

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この記事を書いた人

HTサポートワークス代表
・設備設計
・生成AI×DXコンサルタント
・会社員時代社内DXにて年間休日90日から120日に
・残業ゼロ計画施行

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